太平次のこと その2
太平次には、姉のヨシ子、弟の弥兵衛、弥七、和兵衛、そして妹とたくさんの兄弟がいました。母の名はセン子。湊の高崎新右衛門の娘でした。母セン子は、大きな帆船が白い帆を掲げて堂 々と入港する光景を夢に見て、その後、間もなく懐妊、太平次を生んだと伝えられています。
江戸末期、財政難に苦しんだ薩摩藩は、国産品の販売に関して、直轄地である奄美群島において島民の犠牲を省みない非情な黒砂糖の生産を強い、専売体制を強化しました。また。密かに海外貿易を行い、利益を上げたといわれています。専売品を高値にするため、藩内の海運業者で船団を組む方法がとられました。
主要生産地である奄美群島は海上交通の船だけが唯一の運送手段であり、藩にとって海運業の育成は不可欠で、こうした島津藩(調所笑左衛門)の政策を支えたのが、太平次や黒岩藤兵衛らの海商たちでした。
時遊館coccoはしむれ ホームページより、抜粋
コメント