太平次の事 その3
薩摩藩の事情
他藩の5倍近い家臣団を抱え、生産性の低い火山灰性の土壌で米作に適した土地が少なく、その上、台風や土砂崩れ、火山噴火などのなどの災害が多い薩摩藩は、農業が貧弱な藩で、藩の財政はもともと厳しいものでした。幕府から命じられる参勤交代や、薩摩義士で知られる木曽川治水工事などの様々な御手伝普請、度重なる火災、さらには、島津重豪の開化政策や婚姻政策で、財政状況はさらに悪化、藩の借金は500万両にも達していました。
文政11年(1828)、重豪から財政改革を命じられた調所笑左衛門は、①国産品の販売強化と唐物貿易拡大による収入の増加②藩内諸施設の改善・整理などの合理化 ③借金の250年賦返済(謝金の返済期間を250年に無理やり書き換えたと言われている)を柱に改革に乗り出します。
ここから太平次と調所笑左衛門とのタッグマッチが始まります。
時遊館COCCOはしむれホームページより抜粋
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